みはるんのぽれぽれライフ

日常のこと、趣味のウクレレのことなどのんびり綴っていきます

【お題】わたしの2022年。

特別お題「わたしの2022年・2023年にやりたいこと

もうすぐ2022年が終わろうとしています。振り返れば、あっという間でした。それだけ今年は個人的には激動、そして攻めの年だったのではないかと思います。
仕事では、入社6年目で中堅になり、新人の面倒も任されるようになってかなり手を焼きました。主任との関係の改善を図るため、自分の担当である段ボール箱などのの在庫を主任に報告して、主任の欲しがっている情報を積極的に差し出すようにしました。段ボール箱の組み立ての仕事は速さと仕上がりのきれいさを両立させ、取引先の会社の偉い方から箱の作り方がきれいだとお褒めの言葉を頂くまでになりました。それをきっかけにして主任もそれまでのように邪険な態度を取らなくなったことで、格段に仕事がやりやすくなりました。
プライベートでは、年が明けて間もなく車を買い替えることを決め、半年かけて探して9月に欲しい車を買うことができました。車探しから販売店との交渉まで、ほぼ自分でこなしたことは自分にとって自信になりました。また、車を買うために上半期はがむしゃらに働いて購入資金を貯めました。車の代金を一括で振り込んだ時の達成感は、何と形容したらいいのか、とにかく「やったぞ、自分!」という気持ちでした。
ここまで頑張れた原動力は何だったのだろうと振り返ってみると、年初めから書き始めた「できたことノート」でしょうか。毎日会社に行って働いてくること、仕事帰りに家の買い物をしてくること、休日は洗濯や部屋の掃除、ゴミの始末など、みんな今の自分にできていることです。こなせて当たり前にせず、できている事実をノートに書いて可視化することで、自分を客観的に見られるという利点があると思います。丸一年間続けて、ずいぶんと気持ちも前向きになり、自分にダメ出しする癖もなくなりました。そして車を買うという一大イベントもこなすことができたのです。効果を実感できたので、このノート書きは今後も続けていきたいです。
全体的には自分にとっては良い一年だったのではないかと思います。また来年も良い年になることを願いたいです。とにもかくにも、自分にお疲れ様を。また新たな気持ちで、新年を迎えたいです。

 

車を買い替えました。

11年乗ったベージュのヴィッツを手放し、濃い水色のパッソに乗り替えました。

 

買い替えを検討し始めたのは半年前にさかのぼります。既に走行距離が9万5千㎞に達し、もうそろそろ買い替えてもいいかな…と思うようになり、中古車に絞ってネットで探し始めました。
個人的にトヨタ車が馴染みもあり好みで、私のほかに母も運転しやすい車がいい。そうなるとヴィッツクラスのコンパクトカーに絞られていきました。父はアクア推しだったので一応探してはみたのですが、探せどこれというものに巡り合えず。明らかに予算オーバーか、予算内でもかなり状態が悪いものばかりでした。
仕事が暇になる9月に何とか買い替えたい。そう思いながらも月日ばかりが過ぎていき、9月はすぐにやってきました。父と相談して9月中旬の土曜日(会社が休みの日)に車を見に行くことになり、中古車を扱っているトヨタ系列のディーラー数件へ行くことを決めていました。
そしてまさにその日の前日、心惹かれる車を見つけたのです。それが濃い水色のパッソでした。目の覚めるような、鮮やかで青に近い水色。スペックは申し分なし。私が欲しいと思っていた装備(カーナビ、ABS、盗難防止システム、バックモニター、LEDヘッドライトなどなど)はすべてついていました。しかも令和元年度の登録で、走行距離も2.1万㎞、値段も予算内で色も好み。この車をターゲットと決め、両親にも承諾をもらいました。
パッソを見つけたのが夜だったので、翌朝一番に電話して車を見せてもらう予約を取り付けました。その日に両親と一緒にそのディーラーへ出向き、車を見せてもらいました。期待通りの車で、両親も気に入ったので即決。その後は担当者の方と連絡を取り合いながら書類関係の手続きを進め、10月の頭に納車の運びとなりました。
納車は店頭でということで、店舗までヴィッツを運転していきパッソに乗って帰ることになりました。納車時に担当者の方から操作関係の説明をひと通り受けましたが、何とか運転して自宅まで帰れました。乗り心地はとても良く、両親からも好評でした。ただ前のヴィッツに比べると、ブレーキもアクセルも反応が弱く感じました。ヴィッツは1300ccあって、アクセルを踏めばすぐにスピードが出てブレーキも速く効いてくれたのですが、その分運転は荒くなりがちでした。その点パッソは性格が穏やかというか、急ブレーキ急加速ができないようになっている印象でした。自然と早めのブレーキを心掛けるようになるので、これはこれでいいのかな、と思いました。
初めてパッソに乗って出勤したら、さっそく同僚たちから「車替えた?」の質問攻めにあいました。同僚たちにも好評のようで良かったです。コツコツお金を貯めて、自分で主体的に動いて手に入れた車ですからやはり嬉しいし、少し誇らしい気持ちにもなりました。ずっと大切に乗っていきたいです。

購入したパッソ。この色に一目惚れしました。

手放したヴィッツ。11年間お疲れさま。

 

落胆と安堵と。

勤続6年ともなれば、後輩を指導する立場にもなります。私にもその役目が来て、ある一人の新人さんを面倒見ることになりました。段ボール箱の組み立てを始め、製品の箱詰めのときもその新人さんと組まされて、何だかんだと5か月ほど面倒を見ました。
それが突然、辞められてしまいました…。

辞める理由ははっきりとは聞かなかったのですが、おそらく様々な理由が重なったのだと思います。入社早々、彼女のお子さんがコロナにかかり、彼女自身もお子さんからコロナをもらってしまい3週間ほど休職。その後もお子さんがコロナの再発で入院したり、彼女もたびたび発熱しては早退したり休んだり。全く安定して勤められる状況ではなくなってしまったようです。仕事自体も、あまり彼女には合っていなかったかもしれません。箱作りにしても、速くきれいに作る方法をやって見せて、ここがポイントだということも教えるのですが、なかなか言われた通りにできなかったり。箱詰めでは最初のうちは頻繁に入れ目を間違え、結局私たち先輩従業員(たまに主任)が詰め直しをする羽目になったり。詰めるスピードもほぼ上がらないままでした。他の後輩従業員がどんどん仕事をこなして難しい仕事を覚える中で、彼女だけは箱作りと比較的簡単な数種類の箱詰めを指示されるだけで、周囲との差が開き過ぎていることに彼女自身も気付いていたかもしれません。

とにかく彼女は手のかかる人でした。あまり危険に対する認識がないようで、こちらが教えなければ事故や火事につながることもやってしまうことがよくありました。そのたびに私は肝を冷やし、いちいち理由を説明して安全なやり方を教えなければなりませんでした。それでもなかなか一度では覚えず、何度か同じことを繰り返してやっと直す感じでした。彼女と一緒にいると何かと気を使い、それでも注意すべきことは言わなければならず、どういう言い方なら彼女の自尊心を傷つけずに伝えられるかということに心を砕きました。たまに彼女と離れられる時間があると張り詰めていた心がほどけるのを感じました。

そして彼女が辞めていった今、5か月間いろいろと指導してきたことが結局徒労に終わったという落胆と、彼女の指導役から解放されたという安堵の気持ちが入り混じっています。ご迷惑をおかけしました、という彼女の最後の挨拶がせめてもの救いでしょうか。その日の帰りにはアイスを買って、車の中で一人慰労会をやってから帰宅しました。

今後また新人が入ってきたとして、また指導役を頼まれても、さすがに今度は遠慮したいです。あまりに精神的な負担が大きすぎるからです。相手にもよるでしょうが、今回の件で人を指導する難しさというのを思い知りました。

報われる日が来た。

私の勤め先はプラスチック製品の工場なのですが、ときどき取引先のお偉い方が抜き打ちで視察に来ます。工場内をひと通り見て回り、従業員の仕事ぶりや衛生面などのチェックをしていきます。気になることがあればうちの会社の社長に報告が行き、朝礼などで全従業員に伝えられます。
先日も藤岡の工場の方が視察に見えて、トイレのスリッパの置き方が気になるような話がありました。そしてもうひとつ、私の作る出荷用の段ボール箱がとてもきれいに作ってあるとお褒めの言葉を頂いたそうです。私は主任からその報告を受け、主任からはありがとうとお礼を言われました。

同僚の皆さんからは、外部の会社の人に褒められるなんてなかなかあることじゃない、箱の写真まで撮っていったくらいだからすごいことだよと口々に言われました。6年間箱作りを中心にやってきて、やっと自分のやってきたことが報われる思いがしました。

箱作りのときに心掛けてきたことは、箱は製品の顔であるということです。いくら中身の製品が過不足なく不良品も入れていないとしても、箱がいいかげんに作ってあったのではやはり受け取る側の印象は悪くなります。テープの種類と貼り方は指定されているので、出来栄えは作り手の技量によるところが大きいと思います。私は常々、箱をきれいに作ることを意識し続けました。どうやったらきれいに、しかも速く作れるか、毎日が試行錯誤の連続でした。その結果、箱作りを全面的に任され、同僚からも私の作る箱はきれいだし詰めやすいと言われるようになりました。

現在では箱作りを新人の人に指導する役も任されています。自分の経験をもとに、きれいに作るためのポイントをどうやったら分かりやすく伝えられるか、これもまた難しい課題ですが、何とか伝えようと日々取り組んでいます。だんだんに新人さんが私の手を離れて、きれいな箱作りを受け継いでくれるといいです。

 

 

自分を守りながら働く。

去年の12月に痛めた右手と右ひざがようやく治りかけてきたと思ったら、今度は左手を痛めてしまいました。

仕事で段ボール箱の組み立てをするとき、いつも右手でテープ本体を持ち、左手でテープの端を持って引っ張ったり貼ったりします。ところが粘着力の強いテープを使っているうちに、左手の人差し指に粘着部分が繰り返し貼り付いて、指先の皮がむけてしまったのです。これ以上無理して箱作りをしたら、指の肉が露出してしまうところまで指先が赤くなりました。触るともちろん痛いです。

1月末から2月いっぱいまで早出勤が続き、体力的にも相当きつくなっていました。さすがに私の我慢も限界になり、主任に赤くなった指先を見せて、箱作りを他の人に替えてほしいことと、2月末から3月頭の1週間は定時より1時間早く上がらせてほしいことをお願いしました。結果、朝は早出勤が無くなり、私の希望通り早く上がれることになりました。仕事も、箱作りには他の人を充てて、私は手袋をはめてする箱詰めの仕事に回してもらいました。

指のことを心配して聞いてきた同僚の皆さんには、正直に赤くなった指を見せて皮がむけた経緯を話し、箱作りを代わってくれた人にはお礼を言いました。主任の態度は何となくきつくて、早く私に箱作りに戻ってほしそうでしたが、指が治るまではひたすら低姿勢で、できる仕事をしてしのぐしかなさそうです。

入社してから丸6年、ほぼ全面的に箱作りを任されて、一時的にとはいえ自分の都合で箱作りの仕事を離れることには心苦しさもあったのですが、結局は自分の体を守ることを選びました。ただでさえ箱作りは、社内の他の仕事に比べて体力的な負担の大きい仕事だと思います。その大変さを他の人に背負わせたくない、でもこれだけ大変だということを分かってほしい、両方の気持ちがあって葛藤していたのも事実です。

箱作りをしなかった1週間が終わって思うことは、私は今まで会社に尽くしたい一心でこれまで頑張ってきたのかもしれないということです。障害者雇用で、一般枠の募集しかないところをわざわざ障害者枠を作ってもらって応募、入社した経緯があります。それだけに、雇ってもらえた感謝の気持ちを仕事で返したい気持ちがあったのだと思います。でも、毎日何百枚もの段ボール箱をほぼ一人で組み立てることに、限界を感じるようになってきました。指の皮がむけたことが引き金になって、ついに自分から箱作りの仕事を降りました。それでも、他の人が箱を作って、何とか仕事は回っている。なあんだ、と拍子抜け。何でもっと早く、箱作りを代わってほしいと言わなかったのだろう。自分を守る選択肢はあったのに、ずっと選んでこなかった。やっと選べて良かったね、と自分に言ってやりたいです。

会社に貢献したい気持ちは、行き過ぎると逆に自分を消耗させます。自分の体の限界を知り、キャパシティー(許容量)とのバランスを取ることが大事だと、今回の出来事を通して身をもって知ったのでした。

 

向き不向き。

来る日も来る日も、仕事で大量の段ボール箱の組み立てをこなしている私です。
入社当初から箱作りの仕事はやっていましたが、かなり早いうちから全面的に任されるようになり、3年ほど経って私が中心になって箱作りをやることになりました。
会社は工場なので、もちろんいろいろ仕事はあります。ひと通りやらせてもらって、その中でも特に上達したのが箱作りだったというのもあります。他にも、取り扱っている20種類くらいの箱を覚えていて、箱と、使うテープと入れるビニール袋の組み合わせを全部頭に入れていることも任された理由かと思われます。(箱に入れる製品によって、組み合わせがすべて違います)それと、箱作りを何時間でも一人で黙々とこなせること。今でも一日3時間くらい箱を作るのは珍しくもないのですが、同僚に言わせるとこれだけ一人で大量にこなせる人もいないとか。それを聞くとキョトンとなってしまう私なのです。え?他の人はそうでもないの?と。

自分でも不思議なのですが、6年近く箱作りをしていても、飽きるということがありません。箱作りはどちらかというと単純作業の部類に入ると思うし、テープの貼り方も指定されていて工夫の余地などない、人によっては退屈の極みかもしれません。それでも私は飽きるどころか作るのに熱中できるし、作れば作るほど熟練していくのでむしろ箱作りは好きなのです。

入社時の面接で、「自分はコツコツと一つのことに取り組むのが得意で、この特性を御社の仕事に生かしたい」と話した覚えがあります。履歴書の志望動機にもそう書きました。面接してくださった当時の社長(現会長)も、「いいことだ」と私の特性を評価してくださり、めでたく採用となりました。

それから約6年。うつにもならず出社拒否にもならず、日々の仕事が勤まっているということは、今の仕事が自分に向いているということなのでしょうか。かつて、専門学校で介護を勉強し、お年寄りや障害を持つ人の役に立ちたいと思ってきた私。ところが在学中にうつ病を発症し、寛解後も複数の福祉施設へボランティアへ行ったものの、すぐに気持ちの落ち込みがひどくなり、次第に福祉や介護の仕事は自分には向いていないのかもしれないと思うようになりました。対人恐怖も強くなりました。その後は工場など製造畑を転々としていましたが、パワハラに遭ってひきこもりに。精神科にはかかっていましたが、医師との相性が悪かったこともあって、主治医も何度か替わっています。現在の主治医に福祉事業所を紹介してもらい、3年ほどかけて生活訓練を受け、就労移行から就職にこぎつけましたがまたもパワハラで退職。今度は自分で就職先を探さなければだめだと思って、選んだのが今の会社です。

入社後の私は最初に書いた通りです。どうやら私の興味は対人よりも対物であり、人と話しながら進める仕事よりも、黙々と手先を動かす仕事のほうが合っていたようです。人の役に立つ仕事がしたいと最初は介護の道を目指しましたが、箱作りだって立派に人の役に立つ仕事です。どんな形でも、社会の一員として自分を生かせる仕事に就けて、本当に良かったと思っています。

 

 

 

51歳。

1月20日に、51歳になりました。
いつの間にこんな歳になったのだろう。自分でも、50を過ぎた自分自身など想像もつかなかったです。本当に、いろいろ苦しいこと、つらいことがたくさんあったけど、曲がりなりにも何とか生きてきたなあと、とても感慨深いです。
仮死分娩で生まれて何とか命拾いして、学校に入ればいじめに遭い、訳の分からない生きづらさをずっと抱えてきました。19歳でうつ病を発症してからはずっと、うつとの闘いが続きました。仕事も続かず、ひきこもりも経験し、現在の主治医に巡り合ってようやく福祉事業所への通所と治療を並行して進め、回復への道を歩み始めました。主治医からは発達障害自閉症スペクトラム障害ASD)の診断を受け、闇の中にいた私は明かりと地図を手にした気持ちになりました。それからは本などで発達障害について勉強し、自分自身をよく知ることから始めました。障害者として生きていくことを決め、手帳を取得して障害者雇用での就職を実現。現在の会社に入社して間もなく6年が経とうとしています。

会社では既に中堅になり、出荷用の段ボール箱の組み立てを全面的に任されて、すっかりポジションが定着。通院などの用事以外での欠勤はほぼ無く、安定して出社できています。段ボール箱の運搬用に手袋を用意してもらえたり、寒い場所での仕事にストーブをつけることが認められたりと会社から便宜を図ってもらえることも多いです。現場責任者の主任との関係はかつてはぎくしゃくしていましたが、今は何とか上手くやっていけています。同僚からは付かず離れずのちょうど良い距離感で接してもらえ、中には私を愛称で呼ぶ人も多数います。(自然にそうなっていました)別に嫌なこともなく、親しまれているんだなと嬉しく思っています。

今、こうして振り返ると、かつては見えなかった様々なことが見えてきたり、理解できるようになっています。障害特性によるものであったり、対人関係に不安や恐怖があったりして上手くいかなかったことも、いろいろ経験を積んで学んだことで対処できるようになったことが多いです。現在の環境もだいぶ良くなって、生きづらさはかなり解消されています。ようやく光のさす場所へ出られた気持ちです。

これからも自分なりのペースで、ゆっくり着実に生きていくでしょう。あまり人並み、世間並みを目指さないで、自分らしい、自分ならではの生き方を追求していきたいです。